わっかない会とは

1. 創業の経緯

リスクモンスター社長の杉山和彦氏とオーエーエス社長の海野正氏は、自称トップ営業マンの日興証券の安本利孝氏とは飲み仲間であり、安本氏が敬愛する上司である日興証券常務の横山直樹氏の奥様の実家の店「わっかない亭」で知り会った関係にあった。店で度々顔を合わせたとかで、話して行く内に多くの知人がいるとして「ITの会」や「アートの会」を立ち上げようという話になった。そこに、定年間近の安本氏が得意技の「人を覚える力」「ふる里大好き風」を活かし、人を集め繋げることを残り人生の仕事にすると提案して、2003年に組織化プロジェクトがスタートした。しかし、1弾目として杉山氏が想定した「ITの会」は調整が間に合わず、2004年1月以前に「わっかない亭」で杉山会長・安本幹事の体制で「わっかない会」で発足した。そして、翌2月に2弾目として「アートの会」が海野会長・安本幹事の体制で八重洲の「いづみや」を会場にスタートした。このアートの会は、海野氏のほかに暮沼宏一氏という東京芸大出身のアートデザイナーでアートの世界に人脈を持つ方が海野氏を支える形で参加されている。なお、「IT関係の会」については、調整がつかず「わっかない会」に吸収されたものと思われる。そして、2004年4月、「エステートの会」が創立された。

高井が参加したのは、「わっかない会」が2004年1月(未確認であるがほぼ同月に設立)、「アートの会」が創設時の2004年2月、「エステートの会」(会長が山本剛氏、副会長が原利典氏、幹事が安本氏)が創設時も2004年4月。奇数月開催が「わっかない会」、偶数月開催が「アートの会」「エステートの会」が原則。

「アートの会」は美術・アート関係ルートをもっていることからをメンバー数が多かった時期もあった。2005年1月時点の名簿によると、「わっかない会」が59名に対し、「アートの会」は80名の会員数となっている。なお、「アートの会」「エステートの会」は、2006年9月に統合し「アート・エステートの会」になった。会員数は、「わっかない会」は2009年9月が201名に達し、2015年5月が331名でピーク。「アート・エステートの会」は、2007年4月に229名という名簿がありこの頃がピークと目され、その後2011年8月時点が180名(推定)という計数がある。しかし、安本氏も組織運営に疲れが見え、2009年になり「アート・エステートの会」から身を引き「わっかない会」に集中するようになり、いま述べたように会員数も増えた。そして、その流れの中で2009年5月に「なんばしおっ会」が、2013年2月に「砂川会」が発足している。

安本氏は、自分を「人を見抜き、人を覚えるのが得意技であり、日興証券の人事プロ(自称?)」であると称する人間大好き人間であり、佐賀便丸出しの営業が大得意のネアカ人間であり、多くの会員を集めた。このような組織の維持にはトップの人間の人格と事務局のエンジン力が必要であるが、人材集めは都合500名に達すると思われ、実質的に安本氏運営の会として存続して来ていた。私は会員の獲得も重要だが会員の定着戦略も重要と何度も議論したが、いずれにしろ驚異的なものだと感心する次第である。

2. 安本氏と高井の関係・経緯

交流組織化の共同推進にて合意。全面支援で協力。

1997年頃の話。高井が長銀/福岡支店長、安本氏が日興/熊本副支店長の時の話である。高井の知己が農林中金/熊本支店長の宮園氏(後に副理事長・現在GPIF理事長)、安本氏の佐賀西高の先輩が日銀/福岡支店長の古館氏。安本氏が宮園氏から佐賀県人の高井のことを聞き高井に関心を持った。

ある人を介し会ったのが2003年夏。佐賀県人交流組織「にがごと会」で意気投合。そして、安本氏が暮沼氏から紹介された有森氏を紹介。全くの偶然の神技的な出会いであった。彼の父親が高井の父親の上司と判明。「私が結婚できたのは有森氏のお陰」と満州国境を守る軍人の父の恩人の子息。東京芸大のプロの画家で「アートの会」「わっかない会」」に参画。大感激で「佐賀大好き人間の佐賀人追いかけ」連合の結成へ。動けば思わぬ接点作りが可能となる「交流会」の意義は大きいと再確認をしたことである。

その後、週1~2回というペースで頻繁な飲み会を行った。そこで交流組織の相談を受けた。安本氏は定年直前で得意技である営業力、人のネットワ―ク力を生かした仕事をしたいと。高井も交流には興味があった。人材は安本氏が集めて高井が面倒を見るみたいな会話をした記憶もある。佐賀県人脈の掘り起こしを想定していたが、彼の動きは幅広く、結果として3つの組織に結実した。なお、佐賀県人の組織化は民主党政権誕生により民主党原口代議士・大串代議士の応援組織「なんばしおっ会」で結実した。

3. 組織・運営理念

安本氏が表、杉山氏と協調して。高井は裏から協力・支援。但し、これは杉山氏と話し合った訳ではなく、私と逐次安本氏と会話しで出来た結論像。 高井は、「わっかない」で副会長、「アート」「エステート」で名誉会長を務め共通。

  • 若者の応援団を作ろう出身県。
    • 出身校を情報源として活用。
    • この中で佐賀県の人脈ネットワーク作りを目指す。
  • 長期間組織を維持しフォローを行う。
  • 有望な若者にターゲットを定める。業種は問わない。 
  • 若者への応援意識を持つ中堅の人間の確保に努める。
  • 相互紹介に努め人脈形成に役立てる。結果として若者たちの支援を目指す。
  • 個別の営業的なニーズは組織としては対象としない。会員間で対応する原則。
  • 会員数目標は置かないが名簿管理はしっかりやる。1回の人数目標は50人。
    • 「面白い、有意義な人脈作りの交流組織を目指す。交流の神様がいる!」
4. 会費

無料。但し懇親会費のみ発生。

5. 創業メンバー

杉山和彦

安本利孝

山田修二


6. 創業幹事メンバー(2005年1月時点)
名誉会長下山篤巳
会長杉山和彦
名誉顧問後藤哲也
幹事安本利孝
幹事山田修二
幹事広瀬智也

会長:杉山和彦、副会長:高井俊成、幹事:安本利孝に変更。途中から2005年と想定。「ITの会」設立断念の結果、再調整が行われた。アートの会は2005年2月、エステートの会は2005年1月に名誉会長へ就任。

会長:杉山和彦、副会長:添田由夫、幹事:安本利孝に変更。更に、2009年9月より高井が日本郵政副社長への就任により交代。

7. 会場
当初:「わっかない亭」

安本氏の上司の日興証券横山常務の御夫人の父親が経営。2004年1月から2008年7月まで。

東京都港区西新橋1-12-6 第2富士ビル地下

2代:「いづみや」

八重洲・わっかない亭の閉鎖に伴い移転。2008年9月から2010年3月まで。

東京都中央区日本橋3-3-3

3代:「あさの」

麹町・添田氏の紹介で女将が慶応大学時代の友人。2010年10月より。

東京都千代田区麹町3-7

4代:十勝屋
8. 運営状況

2004年1月の「わっかない会」の設立時点での不安は、若者の集まりと深化に値する面白みを提供できるか、であった。しかし、これは主要なメンバーが必死になり新入会員の入会何とかクリア。「わっかない亭」は、狭いこともあり満員御礼の状況となったが、発足会の意識はなかったしあまり記憶はない。参加者も3,40人ほど。「いづみや」に移って40人ほど。参加者は、平均で40人台、「あさの」に移った頃がピークで先着50名で参加を締め切ることもあった。

「いづみや」に移った後は広く場所を確保できたことから会員の紹介活動を活発化させ有力会員の紹介による入会が増加し出した。2010年代の会員数の伸びは大きく毎回5人を上回り10目を超えた回もあった。半数近くが紹介によるものと言えよう。かならずしも会員数が目標ではないが、紹介ルートの重要性は無視できない。

9. 会員

会員311名。(2024年8月時点)

10. お問合せ

 wakkanaikai@gmail.com

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